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(注意点)
1:海洋スポーツセンターにバス停はありません。バスに乗る際に、運転手に海洋スポーツセンターで下車したいとお伝えください。
2:隠岐空港から西郷港へ向かう公共バスは、出雲便と大阪便の飛行機の発着時間に合わせて運行されています。
Phone: 123-456-7890
500 Terry Francois St.
San Francisco, CA 94158
Email: info@mysite.com
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玉若酢命神社
たまわかすみことじんじゃ
古い歴史があり、話題が多く、話が尽きない場所です。
神社の裏山の頂上には、「前方後円墳」が存在しているため、弥生時代が終わって、古墳時代の頃(約1,500年前)、既に隠岐諸島は中央のヤマト朝廷と繋がりがあったことが分かります。
当時、ヤマト朝廷は、日本各地の地方豪族を「国造(くにのみやつこ)」に任命しましたが、山陰地方では、現在の出雲大社にも繋がる出雲国造(いずものくにのみやつこ)、そのほかにも「意岐国造(おきのくにのみやつこ)」、石見国造、因幡国造、伯耆国造が、地方豪族としてヤマト朝廷と同盟関係にありました。
当時のヤマト朝廷から国造に任命された名前が「おき」で、現在の島の名前にも関わっていると考えられます。
当時は、まだ日本の広い範囲で文字が正式に普及していない時代でした。共通の言語や文字を使わなければ、広い範囲での意思疎通はできず、名前を明確にすることは、お互いを認識する上で重要であり、隠岐に存在する前方後円墳も含めて考えると、当時の隠岐はヤマト朝廷の政治文化圏に従順な立場だったと考えられます。
ヤマト朝廷の後期には、朝鮮半島の百済から仏教がヤマト朝廷にも伝わり始めますが、当時の朝鮮半島は、南東エリアの「新羅」、南西エリアの「百済」、北の「高句麗」の3国に分裂していて、ヤマト朝廷は百済と軍事同盟下にあり、文化や技術的な面でも交流があったと考えられます。
現在の研究では、朝鮮半島の南の海岸沿いのエリアからも10基ほどの前方後円墳らしき建造物が発掘調査され、ヤマト朝廷との関連性が議論されています。
神社境内には、樹齢約1,800年とされる「八百杉(やおすぎ)」の巨木があります。
古墳よりも杉の巨木の方が古いと考えると、時代感覚が分からなくなる場所です。古い巨木なので、枝もかなり太く、大雨や台風の際に大きなダメージを受けると、枝が折れて落ちてくる可能性があるので、通りかかる時には頭上に注意が必要です。
境内に存在している門、旧拝殿、本殿などの建造物は、国指定重要文化財に指定されていて、江戸時代頃の隠岐諸島ならではの建築様式が、現在でも維持保存されています。
現在、日本では本業の大工が減少していますが、昭和の頃までは、隠岐諸島の各地域にも宮大工や船大工が存在していて、各地の神社・寺院や漁船を地域や集落で維持管理していたので、神社や寺院は優秀な大工を育成する場所としての役割もありました。
また、神社に隣接する億岐家(おきけ)の宝物殿は、入場料500円で、国内では唯一、この場所に残存している「駅鈴(えきれい)」を見学することができます。
奈良時代に朝廷から役人(国司)が島を訪れる場合、馬を使いましたが、奈良から隠岐に向かう間、馬も疲れるので、馬を交換する必要がありました。馬も休憩する時には水を飲みますが、水がある沢沿いに馬を集めて、そこを拠点に駅が定められました。
馬が沢に集められた様子から、「駅という漢字」が発明され、現在でも使われています。
各地を駅で繋いで交易する仕組みを「駅伝制度」と呼びますが、もともとは中国大陸の制度で、紀元前1,000年頃の周王朝の時代には、馬を使って公式な交易を行う伝馬制度が存在していました。また、馬や牛の家畜も、もともとは大陸から日本に輸入されたものだと考えられています。この駅鈴を通して、奈良時代には既に隠岐諸島にも、駅伝制度の交通システムが存在していたことが分かります。
毎年6月5日に開催される、「御霊会風流(ごれえふりゅう)」という祭礼では、神社の周辺8地域から神馬(しんめ)と呼ばれる馬が集まる神事が行われます。かつては島前(どうぜん)と島後(どうご)の隠岐諸島の48地域から神馬が集結する、大規模な祭礼だったと伝わりますが、一説によれば、奈良時代に国司が隠岐を訪れる際に、隠岐諸島各地の有力者が集まった様子を現代に伝える様式だと考えられます。
隠岐に駅鈴が残存していて、国司を迎え入れる馬を使った神事が見られることは、駅伝制度が実施されていた様子を現在にも伝える意味で、文化的価値の高い祭礼だと評価されています。
