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西郷港
​さいごうこう

・隠岐諸島と山陰地方

 隠岐諸島の地図を見ると、西側の3つの島が「島前(どうぜん)」、東側の1つの島が「島後(どうご)」と呼ばれ、2つのエリアに分かれています。

 さらに、島前は西ノ島町(西ノ島)、知夫村(知夫里島)、海士町(中之島)の3つの島、島後は隠岐の島町の1つの島で成り立っています。西ノ島に別府港、知夫里島に来居港(くりいこう)、海士に菱浦港、そして隠岐の島町に西郷港があって、それぞれの島の、船の玄関口となっています。

 特に島前3島に囲まれた「内海」と隠岐の島町の「西郷港」は、陸地に囲まれた内湾で穏やかな海のため、海が荒れた場合に船を休めることができる天然の良港として、日本海の海運を支えてきました。

 一方で、本土側の島根半島の東の端には、「美保関(みほのせき)」と呼ばれる地域があり、古代から山陰地方の海上交通の要所でした。現在、隠岐汽船のフェリーが発着する「七類港(しちるいこう)」は、この美保関と呼ばれるエリアに位置しています。

 ​美保関から隠岐の島町の西郷港までが70km、知夫里島の来居港まで55kmの距離感です。

 また、隠岐汽船のフェリーは鳥取県の「境港(さかいみなと)」からも出航しています。境港は、山陰で最大規模の漁港で、隠岐の船団による水揚げも含めて、冬の時期のズワイガニの水揚げ量は日本一です。そのほか、水木しげるロード、米子空港、大山にも近い位置です。

 

 美保関には、美保神社がありますが、祀られているのはエビス様(事代主命:コトシロヌシノミコト)と呼ばれ、日本全国のエビス神社の総本山であることは、あまり知られていません。隠岐諸島の各地の漁港には、必ずと言って良いほどエビスさんを祀る祠(ほこら)が見られ、大漁祈願の神様として、古くから祀られてきた歴史があります。

 一方で、島根半島の反対側の西の端に「出雲」があります。出雲大社に祀られているオオクニヌシノミコト(大国主命)は、別名で大国(だいこく)様と呼ばれます。

 山陰地方の神社を訪れる際、出雲大社と美保神社の両方に参ることがお勧めで、片方だけ参ることを「片詣り」と呼ぶ風習もあります。

 出雲大社は、ヤマタノオロチ、因幡白ウサギ、国引き神話、国譲り神話などで語られる「出雲神話」「日本神話」の中心的舞台となった場所で、縁結びの神様として知られています。

 また、日本の暦では、10月を「神無月(かんなづき)」と呼びますが、出雲地方では10月を「神在月(かみありづき)」と呼び、年に1度、全国の神様が出雲地方に集まるとされています。実際に出雲大社を訪れると、神社の境内には、全国からの神々を迎えるための複数の社(やしろ)が存在し、出雲大社の近くの稲佐の浜と呼ばれる砂浜では、神様を迎える神迎え神事が10月に行われています。

 一方で、美保神社は、神社の一番奥に左右2つの本殿が存在し、夫婦の神様が祀られている珍しい建築様式の神社です。美保関に向かう道中では、日本海沿岸地域で見られる特徴的な海岸沿いの「船小屋」の光景が見られます。かつては1階に船を格納し、2階を住居とした船小屋が存在したようです。

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・石器時代から続く、隠岐諸島と本土の関係

(1万年以上前)

 隠岐諸島の船の玄関口の1つである西郷港の出口は狭いですが、天気の条件が良い日には、ちょうど正面の位置に鳥取県の大山(標高1,800m)が見えることがあります。

 そのほか、西郷港に限らず、隠岐諸島の各地から大山や島根半島が目視できます。

 隠岐諸島から鳥取県の大山に向かって、ちょうど直線上の、海岸が広く見渡せる丘の上に、「妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)」と呼ばれる、鳥取県を代表する弥生時代の大規模集落遺跡があります。遺跡からは大山も綺麗に見えて、見晴らしが良い場所です。

 この妻木晩田遺跡では、縄文時代の隠岐産の黒曜石(こくようせき)も発掘されていて、当時、隠岐諸島が本土と交流していた証拠となっています。

​ 山陰の沿岸では、数千年前の丸木船が出土している

 黒曜石は、火山活動によって地上に噴き出した溶岩に由来する岩石です。溶岩の主成分はガラス成分ですが、黒曜石はガラス成分の含有量が多い天然ガラスといった性質があります。

 割れると鋭いので、刃物として使われたり、弓矢の先端、武器などとして使われ、鏡、装飾品、お守りとして使われた事例もあります。

 

 黒曜石は、中国四国地方では、唯一、「隠岐諸島の島後」で産出されますが、隠岐産黒曜石は、中国四国地方や北陸地方の海岸沿いの広いエリアの遺跡から発掘されています。

 兵庫県の七日市遺跡からは、約3万年前の隠岐産黒曜石が発見されていて、そのほか島根大学のキャンパス内、中国自動車道沿いの集落遺跡などの縄文弥生遺跡からも発見されています。   

 これらの遺跡を線で結ぶことで、当時の人が交流していたルートが浮かび上がってきます。

・宮尾遺跡(みやびいせき):西郷湾の縄文遺跡​​

 西郷港の西側の湾内には宮尾(みやび)と呼ばれる地名があり、現在、その外観は見られませんが、約7,000年前と推定される縄文遺跡が発掘され、大量の黒曜石の石器や貝殻が見つかりました。このことから、当時、西郷湾は黒曜石の積出港だったと考えられます。

 現地は島内でも、黒曜石が産出される場所から離れていることから、島の別の場所で黒曜石を掘り出し、西郷港まで運んだと考えられます。

 隠岐諸島は、もともと火山島で起伏が多い地形なので、当時の人が島内を移動する場合は、陸路よりも海路が速やかだった可能性があり、実際に隠岐諸島の縄文弥生遺跡は、島を取り巻くように海沿いに分布しています。起伏が多い地形なので、島の至る所に山から流れる小川があって、無数の水源が存在し、現在も人が暮らしている集落の位置と共通しています。

 

 上述の通り、天気の良い日には西郷港から鳥取県の大山が見えることがありますが、隠岐諸島から本土を目指す場合、山陰地方で最も標高が高い「大山(だいせん)」を目印に船を漕げば、安全に目的地を目指すことができたと考えられます。

​ 世界的に見れば、数千年前、北米大陸のインディアンは黒曜石を南米大陸まで運んでいた形跡が見られ、太平洋のイースター島で産出される黒曜石はモアイ像の装飾に使われたとされます。アフリカ大陸のエジプトのツタンカーメン王の黄金のマスクの目玉の装飾にも黒曜石が使われていて、約1500年前の大航海時代にスペインが南米大陸に攻め込んだ時、スペイン人が鉄の銃や剣で戦ったのに対して、マヤ・アステカ人は黒曜石の武器で対抗し、勝負にならずに敗れてしまった歴史もありました。

・北前船:江戸時代後期に日本海で流行った商業船​​

 江戸時代の後期、当時の日本最大級の船は「千石船(せんごくぶね)」と呼ばれる帆船で、主に風の力で進みました。大量に物を運ぶための大型の木造船で、一石(いっこく)は1人が1年に食べる米の量で、それを千石積むことができる船でした。

 千石船の中でも、特に日本海沿岸で活躍した船が「北前船」と呼ばれ、最盛期だった江戸時代後期には、1年に約2,000隻が隠岐諸島に往来していたとされます。

 北前船は、江戸時代後期には、北海道から隠岐を経由して、下関から瀬戸内海、大阪の堺まで、1年に1航海、各地で物を仕入れて販売する「商業船」で、建造費が2億円、1航海で1億円を売り上げたとされます。

 

 例えば、北海道産の昆布を大量に陸路で関西まで運ぶことは考えられず、船だからこそ長距離輸送が可能となり、各地の特産品を広い範囲で流通できるようになりました。

 

 海士町の「村上家」は、江戸時代に北前船を建造し自ら操業した「廻船問屋(かいせんどんや)」で、江戸時代の長者番付にも登場した家柄です。

 日本海沿岸を船で進む場合、様々な港へ小刻みに寄港しながら進みましたが、船の改良とともに、長距離航海が可能となり、隠岐の位置は沖乗り航路に相応しい位置にあたり、「島前湾」「西郷湾」は、海が荒れても波や風から逃れられる、北前船の拠点として栄えました。

 隠岐には今でも「民謡」が残っていますが、元々は北前船の船乗りによって伝えられました。海が荒れた場合や風が良くない場合は、船乗りたちも西郷湾や島前湾に留まって、現地で時間を過ごす必要がありましたが、船乗りと現地の娘の実らない恋話などの伝説が、西郷港や知夫里島の島津島などに残されています。

・隠岐にも来た黒船​​

 黒船というと、以下のペリーの話が有名です。

​ ・1853年:

 ・1840年:アヘン戦争(清王朝がイギリス軍艦に攻撃され弱体化)

 

 ・1853年:日本の神奈川県の浦賀にペリーが初来航(アメリカからの蒸気船・軍艦)

 ・1853年:隠岐の周囲や西郷港にロシアの黒船が出現し始める。

 

 ・1854年:日米和親条約(アメリカだけにメリットがある不平等条約)

 ・1858年:日米英仏露蘭修好通商条約(領事裁判権、関税自主権の放棄)

【古代の大陸との関係】

 ・古墳時代(ヤマト王朝):朝鮮半島の百済(くだら)から仏教が伝わる。

 ・飛鳥、奈良、平安時代:遣隋使遣唐使による大陸との交流。

 

 ・​鎌倉時代:大陸を統一した元(げん:モンゴル帝国)が、北九州に攻め込む。

  元寇(げんこう)は、鎌倉幕府が弱体化する原因となった。

   当時は、ベネチア共和国(イタリア)の商人だったマルコポーロが、陸路で元王朝皇帝

  フビライに謁見し、ローマ教皇の親書を受け渡しています。現地で手厚い保護を受け、東方

  見聞録(とうほうけんぶんろく)を書き上げて、それをヨーロッパに持ち帰ったことで、

  黄金の国ジパングという日本に関する噂が広がるきっかけになりました。

 ・室町時代:足利幕府が大陸の明王朝(みんおうちょう)と日明貿易を行う。

   室町時代末期には、朝廷や幕府の拠点でもあった京都の都の政治機能が応仁の乱によっ 

  て10年以上混乱します。混乱した京都を織田信長が大規模な軍事力で制圧したことで、武

  士を統率する足利将軍家が統治力を失い、戦国時代(安土桃山時代)が始まります。

【大航海時代とアジアの危機】

 日本が戦国時代(16世紀頃)だった頃、世界は大航海時代の雰囲気でした。

 ・地中海の東沿岸:イスラム教国のオスマン帝国が全盛の時代。

          地域の商業はイスラム商人が独占していた。

 ・地中海の中央:イタリアのベネチア共和国の商人の存在。

         イスラム商人と西側の貿易を独占しました。

 ・地中海の西沿岸:キリスト教国であるポルトガル、スペインの存在。

         陸路で西側の貿易品が手に入りにくいため、大型船を開発し、主に香辛

         料の利権、キリスト教の普及を背景に海を航海して世界に進出し始めた。

アフリカ、インド、アジア、アメリカへの到達

 ポルトガルヴァスコ・ダ・ガマは、アフリカ大陸の南端(希望峰)まで到達し、その後、インドやマカオ(中国)まで進出し、現地で香辛料貿易を独占しようとしました。

 一方で、スペインは優秀な航海士を募集し、イタリア人であるコロンブスアメリゴ・ヴェスプッチらがアメリカ大陸まで到達し、フィリピンをアジア進出の拠点としました。

植民地化と貿易の独占

 続いて、17世紀の頃、オランダ、イギリス、フランスが次々とインド、アメリカ大陸東海岸に進出し、現地を植民地化する動きが起こりました。

 特にオランダ、イギリスは、出資者を募り、世界初の株式会社である東インド会社を設立し、香辛料、生糸、綿、茶などの現地産品の貿易を独占するようになりました。

 以上のように、大航海時代は、ヨーロッパ諸国が世界中を植民地支配した時代でした。

キリスト教の世界への広がり

 また、大航海時代はカトリック系キリスト教が世界に広まるきっかけとなりました。

 プロテスタント系キリスト教国であったオランダは、キリスト教布教よりも貿易を重視したのに対して、カトリック系のポルトガルとスペインは、世界中の国々にキリスト教を普及しようとするローマ教皇の後押しも背景にありました。

大航海時代の日本

 大航海時代(戦国時代)の日本の大きな出来事として、1543年の鉄砲(火縄銃)の伝来が挙げられます。

 明王朝の船が鹿児島県の種子島に漂着し、乗船していたポルトガル人から島の領主が2丁の火縄銃を買い上げたのが始まりです。日本では、戦国時代という戦乱期の時代だったこともあり、既に刀鍛冶(かたなかじ)などの武器加工技術が一般に浸透していたため、2年後には種子島の刀鍛冶が火縄銃を完成させ、製造方法が各地の刀鍛冶に伝わったとされます。

 特に堺(大阪)と国友(滋賀)が大きな生産拠点となり、戦国大名どうしの勢力争いに大きく影響していきます。火薬の原料がない日本は、ポルトガルから輸入を始めました。

 もう1つの出来事として、宣教師フランシスコ・ザビエルによって、日本で初めてキリスト教の普及活動が行われています。ザビエルは、スペイン人でしたが、当時、キリスト教を世界布教するために結成されたイエズス会のメンバーで、ポルトガル国王から依頼される形で、インドのゴアや日本での布教活動を行いました。

 また、ポルトガル船は、長崎平戸など、主に九州北部の港を拠点に、鉄砲、パン、カステラ、ボタン、タバコ、ガラスなどの物品を日本に初めてもたらし、南蛮貿易が始まりました。  

 一方で、日本からは大量のが対価として輸出され、中国大陸で香辛料、生糸などを購入する資源となりました。

 イエズス会によるキリスト教の普及活動は、ポルトガル船が着岸していた九州北部の地域が活動拠点となり、南蛮貿易で利益を得たキリシタン大名に受け入れられ、幕府や朝廷まで働きかけが行われましたが、布教は一部地域に留まりました。

 その後、1638年には長崎県の島原で天草四郎らのキリスト教徒による一揆が発生し、これを危機に感じた江戸幕府は、1639年にポルトガル船の来航を禁止し、キリスト教の布教活動も禁止されました。

 ポルトガル船の来航が禁止された後は、プロテスタント系のオランダが、キリスト教の普及活動を行わないという条件で、江戸幕府の認可のもと、長崎県の長崎の平戸出島を拠点とし、貿易を行い始めました。その後、出島に拠点が絞られ、西洋の学問である蘭学などが伝えられ、オランダとの江戸幕府との貿易は、幕末まで順調に続きました。

【産業革命のヨーロッパと黒船の関係】

 江戸時代の終わり頃、イギリスでは世界に先駆けて産業の機械化が進み、産業革命と呼ばれる時代を迎えました。

 蒸気機関(燃料を燃やして動力を得る仕組み)が発明され、綿工業が発展し、蒸気機関車によって鉄道が発達、蒸気船によって海運技術が発達しました。

  大航海時代の後半、オランダやイギリスは、現在のインドに設置した、世界初の株式会社である東インド会社を拠点に、世界中と貿易を行うようになりました。

 それまでは帆船が主流でしたが、蒸気機関が発明されたことで、それが軍艦にも応用され、イギリスは世界を代表する軍事大国として大英帝国と呼ばれました。

 

 特に、1840年には、中国大陸の大国だった清王朝の南東の港がイギリスの軍艦に砲撃されたアヘン戦争が起こりました。当時のイギリスは、清王朝に自由貿易の正当性を訴え、香港、上海といった港が、外国船の自由貿易の拠点となっていきました。 

 

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