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西郷港
​さいごうこう

・隠岐諸島の地図を見る。

 隠岐諸島を地図で見てみると、西側の3つの島が「島前(どうぜん)」、東側の1つの島が「島後(どうご)」と呼ばれ、2つのエリアに分かれます。

 島前は西ノ島町(西ノ島)、知夫村(知夫里島)、海士町(中之島)の3つの島、島後は隠岐の島町の1つの島で成り立っています。

 西ノ島に別府港、知夫里島に来居港(くりいこう)、海士に菱浦港、そして隠岐の島町に西郷港があって、それぞれの島の、船の玄関口となっています。

 特に島前3島に囲まれた「内海」と、隠岐の島町の「西郷港」は、陸地に囲まれた地形の広い内湾であるため、海が荒れた場合でも、船を休めることができる天然の良港として、日本海の海運を支えてきました。

・石器時代から続く隠岐諸島と本土の関係(1万年以上前)

 天気の条件が良い日には、隠岐諸島の各地から本土側の島根半島や鳥取県の大山(標高1,800m)が見えることがあります。

 西郷港の出口は幅が狭いですが、ちょうど正面に「大山」が見える位置に存在しています。

 隠岐諸島から鳥取県の大山に向かって、ちょうど直線上の、海岸が広く見渡せる丘の上に、「妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)」と呼ばれる、鳥取県を代表する弥生時代の大規模集落遺跡があります。遺跡からは大山も綺麗に見えて、見晴らしが良い場所です。

 この妻木晩田遺跡では、縄文時代の隠岐産の黒曜石(こくようせき)も発掘されていて、当時、隠岐諸島が本土と交流していた証拠となっています。

 黒曜石は、火山活動によって地上に噴き出した溶岩に由来する岩石です。溶岩の主成分はガラス成分ですが、黒曜石はガラス成分の含有量が多い天然ガラスといった性質があります。

 割れると鋭いので、刃物として使われたり、弓矢の先端、武器などとして使われ、鏡、装飾品、お守りとして使われた事例もあります。

 

 黒曜石は、中国四国地方では、唯一、「隠岐諸島の島後」で産出されますが、隠岐産黒曜石は、中国四国地方や北陸地方の海岸沿いの広いエリアの遺跡から発掘されています。

 兵庫県の七日市遺跡からは、約3万年前の隠岐産黒曜石が発見されていて、そのほか島根大学のキャンパス内、中国自動車道沿いの集落遺跡などの縄文弥生遺跡からも発見されています。   

 これらの遺跡を線で結ぶことで、当時の人が交流していたルートが浮かび上がってきます。

・宮尾遺跡(みやびいせき):西郷湾の縄文遺跡​​

 西郷港の湾内には宮尾(みやび)と呼ばれる地名があり、現在、その外観は見られませんが、約7,000年前と推定される縄文遺跡が発掘され、大量の黒曜石の石器や貝殻が見つかりました。

 現地は島内でも、黒曜石が産出される場所から離れていることから、島の別の場所で黒曜石を掘り出し、西郷港まで運んだと考えられます。

 隠岐諸島は、もともと火山島で起伏が多い地形なので、当時の人が島内を移動する場合は、陸路よりも海路が速やかだった可能性があり、実際に隠岐諸島の縄文弥生遺跡は、島を取り巻くように海沿いに分布しています。起伏が多い地形なので、島の至る所に山から流れる小川があって、無数の水源が存在し、現在も人が暮らしている集落の位置と共通しています。

 

 上述の通り、天気の良い日には西郷港から鳥取県の大山が見えることがありますが、隠岐諸島から本土を目指す場合、山陰地方で最も標高が高い「大山(だいせん)」を目印に船を漕げば、安全に目的地を目指すことができたと考えられます。

​ 世界的に見れば、数千年前、北米大陸のインディアンは黒曜石を南米大陸まで運んでいた形跡が見られ、太平洋のイースター島で産出される黒曜石はモアイ像の装飾に使われたとされます。アフリカ大陸のエジプトのツタンカーメン王の黄金のマスクの目玉の装飾にも黒曜石が使われていて、約1500年前の大航海時代にスペインが南米大陸に攻め込んだ時、スペイン人が鉄の銃や剣で戦ったのに対して、マヤ・アステカ人は黒曜石の武器で対抗し、勝負にならずに敗れてしまった歴史もありました。

・古代の山陰地方の文化的特徴(1万年前〜約1,500年前)

 鳥取県の妻木晩田遺跡からは、黒曜石以外にも、四国地方で産出されるサヌカイトと呼ばれる安山岩(溶岩由来でガラス成分50%の岩石)の石器も見つかっていることから、縄文弥生時代の1つの交流拠点だったと考えられます。

 妻木晩田遺跡の主な見どころとしては、以下の3点が挙げられます。

 ・少なくとも、縄文時代から人が暮らしてきた集落跡であること。

 ・弥生時代の竪穴式住居や倉庫、櫓(やぐら)跡など、約1,000軒の建造物が見られる大規模

  集落が存在していたこと。

 ・弥生時代の中期〜後期にかけて、主に山陰地方で建造された「四隅突出型墳丘墓(よすみ  

  としゅつがたふんきゅうぼ)」が複数存在すること

 

 四隅突出型墳丘墓は、大きなヒトデ型が特徴で、主に山陰地方の山間部や海岸沿い、北陸の富山県、そして隠岐諸島にも存在します。

 現在、約90基が確認されていて、以下のような時代的特徴があります。

 ①弥生時代中期(紀元前1世紀頃):初期。現在、奥出雲地方と呼ばれる島根県と広島県の

  山間部の県境エリアに分布。

 ②弥生時代後期:中期、最盛期。島根県東部の出雲地方、隠岐諸島鳥取県西部の伯耆地方  

  に分布。より巨大化し、最大級のもので一辺約40m。

 ③弥生時代末期:分布エリアが、北陸地方にも拡大し、現在の富山県、福井県、石川県にも

  分布するようになる。

 四隅突出型墳丘墓は、山陰地方で見られる独特の墳墓で、その分布エリアから、当時の地方豪族の勢力圏が浮かびあってきます。

 隠岐諸島では、西郷湾が一望できる小高い丘の上から1辺約20mの中規模の四隅突出型墳丘墓が発掘されていて、大城(おおしろ)遺跡と呼ばれています。

 また、山陰地方には島根、鳥取を含め、1,000ヶ所を超える弥生遺跡が存在し、山陰地方を代表する弥生時代中期以降の特に重要な出土物として青銅器が挙げられます。

 出雲地方の荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)、加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)からは、全国最多の358本の青銅器の銅剣、39個の銅鐸が発掘されています。

 隠岐諸島の海士町の弥生遺跡からも1本の銅剣の1部が発見されています。

 青銅器は、発掘された時点では、青く錆びた状態ですが、使われていた当時は、黄金に輝いた状態だったと考えられています。

 特に銅剣は、九州地方では武器として使われた痕跡も発見されていて、初期は武器として使われていたものが、銅鐸も含めて、徐々に祭祀の道具として使われたと考えられます。

 山陰地方の弥生遺跡からは稲作の跡も見つかっていることから、農業、あるいは漁業も含めて、収穫や漁獲に感謝する祭祀が行われ、そういった祭祀の道具として青銅器の銅剣や銅鐸が使われたと考えられます。

 また、弥生時代の現在の石川県、福井県、富山県、新潟県は越国(こしのくに)と呼ばれ、出雲地方から伝わった四隅突出型墳丘墓が存在するほか、地域の産物である翡翠(ひすい)などが出土していて、大陸の朝鮮半島と海上交流を行っていたことが分かっています。

 

​ 同じく、日本海沿岸の山陰・北陸エリアの弥生遺跡では、国内最古級の製鉄遺跡も発見されていて、当時は大陸から鉄の原料を輸入して加工し始めた時代だと考えられています。

・古墳時代の山陰地方(約1,500年前)

 古墳時代は、関西地方を拠点としたヤマト朝廷が全国に「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」を建設した時代で、全国約4,700ヶ所で前方後円墳が確認されています。

 ヤマト王朝は、全国の地方豪族を「国造(くにのみやつこ)」に任命しましたが、全国的な軍事同盟のようなものだったと考えられます。

 山陰地方では、現在の島根県西部の「石見」、東部の「出雲」、島である「意岐(おき)」、鳥取県西部の「伯耆(ほうき)」、東部の「因幡(いなば)」の地方豪族が国造に任命されていますが、前方後円墳は、国造に任命された地方豪族の墓であったと考えられます。

 隠岐諸島では、約10基の前方後円墳が発見されていますが、いずれも西郷湾近くに存在する玉若酢命神社(たまわかすみことじんじゃ)の周辺に分布しているため、当時の玉若酢神社(意岐国造家)は、ヤマト朝廷や出雲、石見、伯耆、因幡など、周辺の国造家とも連携した存在だったと想像できます。

 また、現在でも全国に多くの「神社」が存在していますが、当時、全国に分布した地方豪族である「国造家」の政治拠点を中心に、神社が周辺地域に整備されていったと考えられます。

 前述の通り、弥生時代の後期には、山陰地方から北陸地方のエリアで、四隅突出型墳丘墓が建造されていましたが、古墳時代になると、隠岐を含む山陰地方の各地にも前方後円墳が建造され、古墳時代には、山陰地方で大きな政治勢力の転換が起こったと考えられます。

 さらに、ヤマト王朝の末期には、朝鮮半島の百済から「仏教」が伝えられています。

 当時(約1,700年

の朝鮮半島は、北の高句麗(こうくり)、南西の百済(くだら)、南東の新羅(しらぎ)の3国に分裂していた時代ですが、これらの3つの王朝によって編集された歴史書や石碑から、当時、朝鮮半島で倭人(わじん)

 

、次の飛鳥時代には、聖徳太子や蘇我氏によって、奈良の朝廷の

・出雲神話と古墳の関係

 古墳時代の山陰地方の豪族の活躍については、出雲神話を読むと、1つの歴史ロマンが見えてきます。1つに、神話は事実とは考えられない、単なる英雄譚や創作物語だとも考えられますが、出雲地方では神話(歴史文献)と考古学(出土した証拠物品)を合わせて考察できる面白さがあります。

 出雲神話には、以下のような4つの物語があります。

 ①スサノオのヤマタノオロチ退治

  スサノオと呼ばれる神が、

 

  

 ②オオクニヌシと因幡の白ウサギ

 ③国生み神話

 ④国譲り神話

 古墳時代の頃、

 出雲神話は、出雲地方を舞台とした大昔の物語ですが、そのクライマックスは「国譲り神話」として描かれています。当時の敵対勢力に対して、敗北を認め、国(土地の領土権)を譲る条件として、出雲大社という当時としては大規模な社(やしろ)を建設して、その権力下に入った物語です。

現在も語り継がれ、出雲大社は古代神話の中心地に当たる場所です。

 

 上述の通り、山陰地方では、まず四隅突出型墳丘墓が存在していて、

 

気の条件が良い日には、隠岐諸島から本土側の島根半島や鳥取県の大山が見えることがあります。また、西郷港の出口は狭いですが、ちょうど正面に大山が見える位置になります。

 

 本土側の島根半島の東の端には、「美保関(みほのせき)」と呼ばれる地域があり、古代から山陰地方の海上交通の要所として機能してきました。

 ​美保関から隠岐の島町の西郷港までが70km、知夫里島の来居港まで55kmの距離感で、知夫里島の観光名所となっている赤壁(せきへき)は、海上からも赤い色が目立つため、船乗りが知夫里島にたどり着いた時の目印になったとされます。

 

 島根半島の美保関には、美保神社がありますが、祀られているのはエビス様(事代主命:コトシロヌシノミコト)と呼ばれ、日本全国のエビス神社の総本山であることは、あまり知られていません。

 隠岐諸島の各地の漁港には、必ずと言って良いほどエビスさんを祀る祠(ほこら)が見られますが、現地では大漁祈願の神様として、その場所で古くから祀られてきた歴史があります。

 一方で、島根半島の反対側の西の端に「出雲」があります。出雲大社に祀られているオオクニヌシノミコト(大国主命)は、別名で大国(だいこく)様と呼ばれます。

 山陰地方の神社を訪れる際、出雲大社と美保神社の両方に参ることがお勧めで、片方だけ参ることを「片詣り」と呼ぶ風習もあります。

 出雲大社は、ヤマタノオロチ、因幡白ウサギ、国生み神話、国譲り神話などで語られる「出雲神話」「日本神話」の中心的舞台となった場所で、縁結びの神様として知られています。

 また、日本の暦では、10月を「神無月(かんなづき)」と呼びますが、出雲地方では10月を「神在月(かみありづき)」と呼び、年に1度、全国の神様が出雲地方に集まるとされています。出雲に全国の神様が集まるという話は、平安時代以降に全国に広まった創作話だとする説もありますが、実際に出雲大社を訪れると、神社の境内には、全国からの神々を迎えるための複数の社(やしろ)が存在していて、出雲大社の近くの稲佐の浜と呼ばれる砂浜では、神様を迎える神迎え神事が10月に行われているのも事実です。

 一方で、美保神社は、神社の一番奥に左右2つの本殿が存在し、夫婦の神様が祀られている珍しい建築様式の神社です。ただし、現場に行くためには車で細い1車線道路を行く必要があるので、運転に注意が必要です。美保関に向かう道中では、日本海沿岸地域で見られる特徴的な海岸沿いの「船小屋」の光景が見られます。かつては1階に船を収納し、2階を住居とした船小屋が存在したようです。

 現在、出雲地方というと島根半島の東のエリア周辺の意味あいが強いですが、古代には現在の島根県東部の広い範囲が出雲と呼ばれていました。

 一帯には、「前方後円墳」などの古墳地帯が無数に点在し、大量の「青銅器の銅剣・銅鐸」が発見されたことでも知られていて、隠岐諸島も古い時代から出雲文化の影響を受けながら、神社や祭りなどの地域文化が育まれました。

・北前船:江戸時代後期に日本海で流行った商業船​​

 江戸時代の後期、当時の日本最大級の船は「千石船(せんごくぶね)」と呼ばれる帆船で、主に風の力で進みました。大量に物を運ぶための大型の木造船で、一石(いっこく)は1人が1年に食べる米の量で、それを千石積むことができる船でした。

 千石船の中でも、特に日本海沿岸で活躍した船が「北前船」と呼ばれます。

 北前船は、江戸時代後期には、北海道から隠岐を経由して、下関から瀬戸内海、大阪の堺まで、1年に1航海、各地で物を仕入れて販売する「商業船」で、建造費が2億円、1航海で1億円を売り上げたとされます。

 

 例えば、北海道産の昆布を大量に陸路で関西まで運ぶことは考えられず、船だからこそ大量の物を長距離輸送できたのが「北前船」で、各地の特産品を広い範囲で流通できるようになりました。

 

 海士町の「村上家」は、江戸時代に北前船を建造し自ら操業した「廻船問屋(かいせんどんや)」で、江戸時代の長者番付にも登場した家柄です。

 日本海沿岸を船で進む場合、様々な港へ小刻みに寄港しながら進みましたが、船の改良とともに、長距離航海が可能となり、隠岐の位置は沖乗り航路に相応しい位置にあたり、「島前湾」「西郷湾」は、海が荒れても波や風から逃れられる、北前船の拠点として栄えました。

 隠岐には今でも「民謡」が残っていますが、元々は北前船の船乗りによって伝えられました。海が荒れた場合や風が良くない場合は、船乗りたちも西郷湾や島前湾に止まって、現地で時間を過ごす必要がありましたが、船乗りと現地の娘の実らない恋話などの伝説が、西郷港や知夫里島の島津島などに残されています。

・隠岐にも来た黒船と隠岐騒動への流れ​​

 日本の歴史の中で、外国船がやって来た機会は、幾度となくありました。

 古墳時代のヤマト王朝は、朝鮮半島の南西沿岸の百済と軍事同盟の関係にあり、当時は朝鮮半島からの船の往来があったと考えられます。

 それに続く、飛鳥・奈良時代も、聖徳太子、蘇我氏、朝廷が大陸に「遣隋使」「遣唐使」を派遣し、大陸からの船の往来がありました。

 平安時代末期も平氏のトップだった平清盛が明王朝との勘合符貿易を行い、鎌倉時代にはアジア大陸を統一したモンゴルの元王朝が日本の九州北部を侵攻する元寇がありました。

 15〜16世紀頃は、日本では織田信長が活躍した後の戦国時代でしたが、世界は大航海時代で、ポルトガル、スペイン、イタリアといった地中海沿岸のキリスト教国が、香辛料の利権、キリスト教の普及、進歩した航海技術を背景に、世界各地へ進出しました。

 同じ時期、地中海の東沿岸地域はイスラム教国であるオスマン帝国が全盛の時代で、その地域の商業はイスラム商人が独占していました。イタリアのベネチア商人は、オスマン帝国と友好関係を結び、貿易を独占し、それよりも西側のポルトガル、スペインは、高い関税を支払って貿易品を手に入れる必要があったため、大型の船を開発して世界に進出し始めたことから大航海時代が始まりました。

 まず、ポルトガルはアフリカ大陸方面に船で進出し、

 

貿易を奨励し、

  

日本にやって来たのは、日本の歴史の中でも、

江戸時代の終わり頃は、大陸の大国であった清王朝がイギリスの軍艦によって壊滅的なダメージを受け、欧米諸国がアジアに進出する大きなきっかけとなりました。

 15世紀

日本に外国の黒船が来航した時代です。

 ・1840年:アヘン戦争(清王朝がイギリス軍艦に攻撃され弱体化)

 ・1853年:日本の浦賀にペリーが初来航(アメリカからの蒸気船・軍艦)

 ・1853年:隠岐の周囲や西郷港にロシアの黒船が出現し始める。

 ・1854年:日米和親条約(アメリカだけにメリットがある不平等条約)

 ・1858年:日米州交通商条約(領事裁判権、関税自主権の放棄)

 

岐の島町の約13,000人の人口のうち、約10,000人は南東エリアの西郷地区に集中しています。

隠岐諸島の中でも、隠岐の島町では「黒曜石(こくようせき)」と呼ばれる、かつての石器の材料となった岩石が産出します。島前の縄文弥生遺跡から発見される場合もありますが、島後側から運び込まれたものだと考えられます。

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