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隠岐国分寺
​おきこくぶんじ

 仏教は古墳時代(約1500年前頃)から徐々にヤマト朝廷に受け入れられるようになりましたが、奈良時代の聖武天皇の時代(741年頃)には、当時の寺院としては最大規模となる「東大寺の大仏殿」が建立されたり、日本全国の約130箇所に「国分寺・国分尼寺」が建設されました。当時の全国の国分寺には、七重塔が標準で設置されていたようです。

 朝廷によって全国に中央集権制度が普及され、それと同時に、全国的な仏教普及活動や大陸の制度や文化が導入された時代です。

 また、現在使用されている漢字が、公式な文字として採用されたのも奈良時代で、「古事記」「日本書紀」といった歴史書、全国の様々な地位の人からの和歌を集めた「万葉集」、当時の各地の歴史を編集した「風土記」などが制作されたのも、この時代の出来事です。この後の平安時代になると、漢字を崩した「ひらがな」「カタカナ」が日本独自の文字として使われ始めるようになりました。

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 1つに、古事記や日本書記といった歴史書の中では、「出雲地方」が最初の舞台として描かれ、「日本神話」「出雲神話」として語られ、ヤマタノオロチ退治、因幡白うさぎ伝説、国生み神話、国譲り神話などが知られています。

 山陰地方の岩見地方や奥出雲の山間部エリアでは、季節の祭りとして神楽を実施している地域も見られますが、神話の物語で語られる伝説が、神楽という伝統的な舞の様式で保存されています。

 歴史学者や考古学者は、文献や発掘されたモノから神話の事実性について検証しますが、神楽として地域住民にも披露されてきたことを考慮すると、何らかの歴史物語を、そこに表現しようとしたと考えられ、地域の子供たちを教育するための悪者をやつける英雄譚的な意味付けも少なからずあったと考えられます。

 当時の政治システムは、現代とは全く別次元の感覚で、天皇は絶対的な王様に近い存在で、それ以外の人間や土地は所有物だといった「公地公民」の制度がありました。

 聖武天皇や側近の藤原氏が、「墾田永年私財法」を定めると、開墾した土地を私有地化できるようになりました。農民に土地を与えることで、耕作意欲の向上を目指しましたが、結果的に財力のある勢力が、その土地の浮浪人を雇って土地を開墾し、各地に私有地を広げ、荘園が形成されるようになりました。「荘園領主」は、小作人を雇う形で独自の税収権を持つようになり、財力を蓄えながら権力を固めた時代だと言えます。

 以上のような政治制度から、奈良時代後期以降は、天皇家、藤原家、国造家(神社)、寺院といった貴族権力が所有する荘園が全国に形成されていきました。

 奈良、平安時代までの隠岐諸島の一般住民が、どのような暮らしぶりだったかを考える場合、漁師や農民のような暮らしが主流だったと考えられます。

 古代の隠岐で農業がどのように普及したかは情報不足ですが、出雲地方では約3,000年前の弥生時代の稲作遺跡が発見されていて、隠岐諸島の各地でも弥生時代の土器が大量に出土し、食料を保存していたことを考えると、隠岐でも古い時代から農業が始まっていたと考えられます。

 また、奈良時代の朝廷から発見される「木簡」から、隠岐諸島からはアワビ、ワカメ、イカなど、主に海産物が税として朝廷に献上されていたことが分かります。

 当時、地域によっては人の労役であったり、衣類であったり、金属であったり、各地ごとに朝廷に献上するものは特産品的な雰囲気がありましたが、隠岐諸島は朝廷に食糧を献上する「御食国(みけつくに)」としての役割があり、役割をこなすことで朝廷権力に守られていた、当時ならではの政治システムだったと想像できます。

 

 以上のような時代背景から、当時の隠岐の住民は朝廷、国造家、寺院などの有力な政治勢力のもとで安全で有効的な生活を送っていたと想像でき、全国の他の地域と同じように、天皇や貴族が隠岐諸島の所有者といった雰囲気が存在していたと考えられます。


 

 全国に建設された国分寺には、都の有力な寺院で仏教を学んだ僧が派遣されました。現在で言えば、国家から日本各地に派遣される国家公務員に近い、行政官的な役割もあったと考えられますが、それまでになかった新しい考え方である仏教や大陸から輸入した文化や最新技術を普及する目的があったと考えられます。

 

 全国の国分寺は20名、国分尼寺は10名と仏教僧の定員が定められ、寺院が所有する土地を開墾し、現地で自給自足の生活を送るルールだったようで、同じく中央から派遣された「国司」が管理責任者の立場でした。

 

 当時は、現代のような農業機械やクレーン、ブルドーザーなどの土木技術がなく、土地を開拓する力は直接的な人力でした。全国的にも開拓する土地が広く存在し、新たに開拓することで「戸籍」が定められ、税収(財力)を拡大しようとしたと考えられ、国分寺も奈良〜平安時代頃に荘園を拡大した1つの勢力だったと考えられます。

 

 平安時代の末には、天皇を退位した「上皇」が出家して僧になり、都に寺院を設立し、そこを拠点として政治を行う「院政」が行われました。当時は、藤原氏の権力も弱まり、上皇は、全国に所有する自らの荘園を自らの寺院に寄進し、寺院の所有地とすることで、莫大な独自財源を背景に政治を行っていました。

 

一方で、武士の家柄である平氏のトップであった平清盛は、歴史上の武士として太政大臣になった唯一の人物です。武士であると当時に、朝廷内部でも決定権を握る役職で、上皇権力と政治的な友好と敵対の関係を繰り返していました。

奈良〜平安時代は、天皇や貴族が都の朝廷で政治を行う時代でしたが、平安時代の末期になると、朝廷を支える武士である平氏と源氏の争いが表面化し、壇ノ浦で平氏が滅びると、源氏によって鎌倉時代が始まりました。

 

平安時代までは政治の中心は京都にありましたが、源氏は朝廷から距離を置き、関東の鎌倉に幕府を置いて武士による政治を行うようになりました。

 

特に、日本各地を管理するに当たっては、現在の警察の役割である守護、税収が主な役割の地頭を各地に派遣して、半ば武力的に地域に入り込んで駐屯する形で、それまでになかった独自の地方自治と税収を始めるようになりました。

 

鎌倉幕府が始まる頃、山陰地方の隠岐や出雲の守護には、近江地方出身の源氏系武士の家系であり、源頼朝の側近であった佐々木氏が担当することとなり、一族で地域の政治的管理を行うようになりました。

当時、隠岐の土地は都の天皇や貴族、神社や寺院が所有する荘園だったと考えられますが、武士である佐々木氏が新たに荘園に駐屯する形で、実効支配をし、自らも土地を開拓する勢力となっていったと考えられます。

 

日本各地に駐屯した守護は、地域を実効支配し、独自に徴税を行うようになりますが、土地の所有権自体は上皇や貴族のままで、朝廷関係者や貴族の税収が減少しました。

 

鎌倉時代の京都には後鳥羽上皇が上皇の役職として存在していましたが、当時は、まだ全国各地に上皇や関連寺院が所有する荘園が存在していたようです。

後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を倒そうとして挙兵しますが、敗北して隠岐の海士町に流罪となりました。当時、上皇の朝廷権力が正式に武士に敗北したことによって、上皇や朝廷関係者が所有していた全国の広大な荘園が、鎌倉幕府の所有地となりました。

 

その後、後鳥羽上皇は、海士町で19年の生涯を送り、隠岐神社には上皇を火葬した火葬塚が存在しています。後鳥羽上皇の主な歴史的な功績は、当時の和歌集を編纂し、さまざまな身分の時代的な意見を、当時の文学的方法で集約した点で、日本の国語の土台を構築した教育者であり文化人としての立場が浮かび上がります。また、現在の日本のパスポートや天皇家の意匠となっている16紋の菊の紋章を考案したのも後鳥羽上皇とされています。家紋も、日本独特の文化であり、日本文化の礎を築いた人物でもあります。

 

後鳥羽上皇から100年後、後醍醐天皇が鎌倉幕府の討幕を計画し、1度は失敗して、約1年間、隠岐に流罪となり、その後、島から脱出して、武士勢力を結集して鎌倉幕府を討幕し、その後の南北朝時代や室町時代への流れのきっかけを作りました。

 

隠岐国分寺には、鎌倉時代に隠岐へ流罪となった後醍醐天皇が滞在した伝説が伝わり、国の史跡指定を受けています。根拠となった文献は、鎌倉時代の歴史書とされる増鏡(ますかがみ)や軍記物とされる太平記で、物語的な側面も強い文献であるため、伝説だとも考えられますが、実際に現地を訪れると、後醍醐天皇行在所跡:西園寺公望と刻まれた石碑が存在する歴史スポットです。

 

一方で、隠岐諸島の西ノ島の別府港の近くには、後醍醐天皇が滞在したとされる島根県指定の史跡として黒木御所が存在し、一緒に流罪となった側室関係者の住居跡や関連する寺院跡の痕跡も残されています。

周辺には、現在では明確な建造物は残されていませんが、当時の隠岐の守護であった、隠岐氏(佐々木氏)による記録から、当時の守護関係者の所在地近くに天皇の所在地を設けていた様子が伝わっています。

 

奈良時代に全国に建設された国分寺の管理責任者は、朝廷から派遣される国司が担っていました。当時の隠岐に関しては、意岐国造家が存在し、既に朝廷と協力関係にあったため、国造と国司の協力関係で政治が行われたと考えられます。

現在の玉若酢神社からすぐ近い場所に、国府尾城(こうのうじょう)と呼ばれる鎌倉時代の山城跡がありますが、その地名から、国司が滞在した国府は、玉若酢神社の周辺に存在していた可能性があります。

また、現在の隠岐高校周辺の地名は尼寺原と呼ばれ、現在、寺院の建物は残っていませんが、発掘調査によって、かつての国分尼寺跡だと考えられています。

 

隠岐国分寺では、毎年4月21日の正御影供(しょうみえく)の法要の際に、蓮華会舞(れんげえまい)と呼ばれる舞が披露されます。

日本の主な仏教の歴史については、飛鳥時代に聖徳太子や蘇我氏らが百済から導入した時期、奈良時代に聖武天皇が全国に国分寺を建設、平安時代には遣唐使であった最澄が帰国して天台宗を開き、その後に、空海が唐から密教を持ち帰り真言宗が開かれました。平安時代の末期には、上皇が自ら出家して寺院を建設するような時代であったため、仏教は貴族文化に溶け込んでいったと考えられます。鎌倉時代になると、それまで権威のあった大規模寺院で修行した僧侶が独立する形で、念仏系の浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、題目系の日蓮宗(日蓮)、座禅系の臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)と鎌倉仏教が武士や民衆にも普及しました。

現在の全国の国分寺は、平安時代に空海が開いた歴史ある真言宗の寺院で、正御影供は旧暦3月21日の空海の入滅した日に行われる法要で、隠岐に伝わる蓮華会舞は平安時代頃の舞の様式を現在にも伝える文化財に指定されています。

蓮華会舞の衣装や舞の様式は、もともと大陸から朝廷に伝わったと考えられ、インドや東南アジアの文化的要素も感じられます。

   奈良、平安時代は、遣隋使や遣唐使が大陸に派遣され、中央集権制度に関する様々な制度や文化を持ち帰った時代で、その影響が隠岐の島にも伝わっていたことが分かります。

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