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(注意点)
1:海洋スポーツセンターにバス停はありません。バスに乗る際に、運転手に海洋スポーツセンターで下車したいとお伝えください。
2:隠岐空港から西郷港へ向かう公共バスは、出雲便と大阪便の飛行機の発着時間に合わせて運行されています。
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西郷港
さいごうこう
①西郷港に黒船が来た事件
・1867年:西郷港にイギリスの黒船が来航する事件がありました。
・1868年:島の住民約3,000人が集まって、隠岐を統治していた松江藩を追い出す隠岐騒動が起こります。
・1867年:江戸幕府の15代将軍だった徳川慶喜が天皇家に政権を返上する大政奉還が起こります。
・1868年:明治新政府が始まった年です。
日本が外国と交流を行ってきた歴史としては、全国に古墳が建造された6世紀頃のヤマト朝廷の時代には大陸から仏教が伝えられ、飛鳥時代には遣隋使、奈良時代・平安時代には遣唐使や日宋貿易、鎌倉時代には元王朝に攻撃される元寇、将軍が京都で政治を行なった室町時代には日明貿易が行われました。
室町時代の末期になると、京都の足利将軍家の権力が弱くなり、全国で戦国大名が乱立する下剋上の時代となり、勢いに乗った織田信長が足利将軍家を追放し、安土桃山時代(戦国時代)が始まります。
1543年には鹿児島県の種子島に来航したポルトガル船によって日本に鉄砲が伝えられ、1573年には織田信長と徳川家康の連合軍が武田軍に対し、鉄砲を初めて導入して勝利する長篠の戦いがありました。
15世紀のヨーロッパは大航海時代と呼ばれ、まずカトリック系キリスト教国であったポルトガル、スペインが、香辛料やキリスト教の普及を目的とした世界航海を開始した時代でした。
当時のヨーロッパ諸国とアジアの間には、イスラム教国のオスマン帝国が存在していたので、ヨーロッパで香辛料などのアジア原産品を入手するためには高額の流通関税を支払う必要がありました。
現在のイタリアの一部地域にあたるヴェネチア(ベニス)帝国は、国としてはオスマン帝国と対立していましたが、ベニスの商人はオスマン帝国からもたらされるアジア経由の産品の流通を独占していました。
以上のような背景から、
オランダ、
外国船がやってきた歴史としては、15世紀にポルトガル、スペイン
江戸時代の後期は、日本各地の海岸でイギリス、アメリカ、フランスなどの黒船が目撃されるようになります。江戸時代に隠岐を統治していた松江藩の記録によると、1809年に、隠岐の近海で黒船が初めて目撃され、それ以降、黒船に対する警戒感が高まりました。
1840年には、中国の清王朝がイギリス軍艦に砲撃されて敗れるアヘン戦争が起こっているので、日本を含むアジアの沿岸でも、外国船に攻撃される危険性が高まっていた時代だと言えます。
1853年
1863年、九州の薩摩藩(鹿児島県)はイギリスの軍艦を追い払うために砲撃を行いますが、逆にイギリス軍艦に敗れる薩英戦争が起こっています。また長州藩(山口県)は下関を勝手に通行する、フランス、アメリカ、オランダの船に対して砲撃を行い、逆にイギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊に砲撃されて敗れる下関戦争も起こりました。
1867年、隠岐騒動(1868年)
西郷港には
隠岐の島町の西郷港からは、天気のコンディションが良ければ、鳥取県の大山(だいせん)を見ることができます。大山は標高1,729mで、山陰地方で最も高い山です。
鳥取県の大山が見える港
隠岐の島町の西郷港からは、天気のコンディションが良ければ、鳥取県の大山(だいせん)を見ることができます。大山は標高1,729mで、山陰地方で最も高い山です。
大山では、奈良時代(718年)に大山寺が創建されましたが、日本国内でも古い時代の仏教寺院だと言えます。同じ奈良時代、聖武天皇が日本全国の約130ヶ所に国分寺(741年)の建設を命じ、隠岐には現在も国分寺が存在しますが、大山寺は、国分寺よりも少し古い時代の初期日本仏教の霊山です。
一方で、同じく、奈良時代に山陰地方の歴史について記された「出雲国風土記(733年)」では、大山は海の向こうの土地を綱で繋ぎ止める「杭」の役割を果たしていたと、比喩的な表現がなされています。出雲国風土記は、当時の朝廷の命令によって、出雲国造(いずものくにづくり)が編纂しましたが、出雲国造は現在の出雲大社の歴史にも繋がります。
大山は、古い時代の仏教建築が残る場所であると同時に、山陰の神話を象徴する山でもあります。
大山と山陰地方の考古学
隠岐諸島から見て、大山の麓(ふもと)の海岸の丘に、妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)と呼ばれる縄文・弥生遺跡があります。
弥生時代の大規模な環濠集落跡(かんごうしゅうらく)として知られる遺跡ですが、その他にも四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が存在し、縄文時代の隠岐産の黒曜石(こくようせき)なども出土しています。
四隅突出型墳丘墓は、弥生時代後期に建造された墓で、現在の島根・鳥取県と広島・岡山県の山間部の県境エリアや、兵庫県、石川県、福井県、富山県の日本海沿岸エリアにも分布し、約100基の存在が確認されています。隠岐諸島でも西郷港から近い丘の上に存在しています。
四隅突出型墳丘墓は、弥生時代後期に、日本海沿岸地域に1つの文化圏やネットワークが存在していたことを物語っています。
黒曜石は、割ると断面が鋭い特徴があるため、石器時代の頃から世界中で、武器や刃物などの道具として使われてきた岩石です。もともと、火山のマグマが、特定の条件下で冷え固まって形成される岩石で、世界中の火山地帯で遺跡が見つかっているほか、日本には数カ所の黒曜石の遺跡が存在します。
例えば、黒曜石は、エジプトのツタンカーメンの黄金マスクの目玉の装飾に使われているほか、北米のインディアンが使用したり、太平洋のイースター島のモアイ像の目玉、マヤ・アステカ文明では手術用のメスに利用した歴史があります。
日本の黒曜石は、北海道が質・量ともに一大産地で、長野県、佐賀県、隠岐、神津島(東京)、姫島(大分県)が主な産地です。黒曜石は、全国の石器時代、縄文時代、弥生時代頃の遺跡から発掘されることがあり、発掘された黒曜石の成分を分析することで、その黒曜石の産地を特定することができ、昔の人類が、どのように生活していたのか、交流範囲などを知ることができます。
隠岐諸島の大部分の土地は、数百万年前の火山噴火の溶岩で形成された土地で、その中でも、隠岐の島町の一部の地域だけで黒曜石が産出しますが、兵庫県の七日市遺跡からは、約3万年前の隠岐産の黒曜石が出土していて、古い時代からの人々のネットワークを連想させます。
山陰地方で見つかった青銅器
山陰地方の弥生時代後期の文化的特徴として、四隅突出型墳丘墓が分布する日本海文化圏が存在していたほか、特に出雲地方では大量の青銅器の銅剣・銅鐸が発見されていて、隠岐諸島でも海士町で1本の銅剣の破片が発見されています。
青銅器の銅剣・銅鐸は、日本全国で発見されていますが、特に出雲地方では大量に埋葬されている点が特徴です。青銅器(銅)や鉄の加工技術は、もともとは大陸から伝わった技術ですが、世界的な文明や軍事技術の転換をもたらした技術だったと言えます。
鉄と銅を比べると、現在でも鉄の方が実用的に使用する機会が多く、武器や農具などの道具として使う場合は、鉄の方が便利で、鉄の加工技術に優れたグループが当時の強い国だったと考えられます。
一方で、青銅器は鉄と比べて柔らかいため、武器や実用的な道具として使用されるよりも、主に祭の道具として使われたと考えられています。遺跡から発見される青銅器は、錆びて青い色ですが、実際の銅は金色に近い色で、祭の際には、太陽の光を反射し、神秘的な雰囲気があったと考えられます。
全国で発見されている銅剣・銅鐸は、弥生時代後期に流行していた、当時を象徴する祭の道具で、その特徴を比較することで当時の交流が見えてきます。
山陰地方の神話
弥生時代が終わり、大和朝廷による古墳時代を経て、飛鳥時代の頃になると、大陸から漢字が導入され、文字で記録や情報伝達ができるようになりました。
奈良時代になると、当時の朝廷によって古事記(712年)、日本書紀(720年)、全国の風土記(713年)が制作されました。これらの古文書は、現在では日本神話とも呼ばれていて、以下のような山陰地方の神話があります。
【国生み神話】
イザナギとイザナミの夫婦が日本に大八洲(おおやしま)の国々を生んだ神話。
日本では八百万(やおよろず)や、八百屋(やおや)といった言葉があるように、漢字の八は「数多くの」という意味や縁起が良いことを表す意味があり、大八洲は、日本全国の多くの島を指していると考えられます。古事記では、淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順番に国を生んだと記述されていますが、隠岐は3番目に生まれたとされ、実際の記述では「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」またの名を「天之忍許呂別(あまのおしころわけ)」と記されています。
また、本州、九州、四国といった大きな島だけではなく、淡路島、隠岐、壱岐、対馬、佐渡といった小さな島も取り上げられ、隠岐を含めた日本海の島々も重要視されていたことが分かります。
【国引き神話】
出雲国造が制作した出雲国風土記に記述された地域の歴史で、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が4つのエリアから土地を引っ張ってきて、出雲の国の地域が拡大した神話。
奈良時代に出雲地方に存在していた言い伝えが、朝廷の命令によって記述されたと考えられるが、現在でも存在する地名や神社名が記述されている特徴がある。
【黄泉の国(よみのくに)】
イザナギが亡くなった妻であるイザナギを探しに黄泉の国へ向かったが、変わり果てた姿を見て、逃亡する神話。現在も出雲地方には、黄泉の国の神話が残された場所が存在する。
【ヤマタノオロチ】
スサノオが出雲地方で、ヤマタノオロチを退治し、クシイナダ姫を救出し、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を発見した神話。島根県の岩見地方では神楽の題材として人気があり、現在でも出雲地方に伝わる「たたら製鉄」の製鉄技術を連想させるような神話。また、製鉄や刀剣に関わる神社の神事も存在する。
【稲葉(いなば)の巣兎(シロウサギ)】
淤岐嶋(おきのしま)のシロウサギは、海の向こうに渡りたいと思い、和邇(ワニ)を騙す計画を立てました。島から向こうの対岸に向かってワニを並ばせ、どちらの仲間が多いか、ウサギは対岸に向かってワニの背中を飛び移りながらワニの数を数えました。対岸に辿り着きかけた最後の最後の時、ウサギはワニが騙されたことを馬鹿にし、怒ったワニはウサギの毛をはいでしまいました。
オオクニヌシの兄が兄弟を引き連れて稲葉のヤガミヒメに求婚に出かける時、オオクニヌシは荷物持ちとして付き添いましたが、その道中で、兄弟の一行は傷ついたシロウサギを発見しました。兄はウサギに嘘をついて虐めましたが、オオクニヌシはウサギに傷を和らげる方法を教え、やがて、その噂を聞きつけたヤガミヒメは、最終的にオオクニヌシを夫として選んだという神話です。
古事記に記載された神話ですが、稲葉が鳥取県東部の因幡地方(いなばちほう)に通じると考えられ、巣兎と書いてシロウサギと読まれています。また、国生み神話では、隠伎之三子島が3番目に生まれた記述がありますが、稲葉の巣兎の神話では、淤岐嶋(おきのしま)の漢字表記が使用されていて、単純に海の向こうにある「沖の島」という説や、当て字で「隠岐の島」ことを表すとする説が存在します。
実際、奈良時代は正式文章に漢字が使われ始めた時代であったため、漢字の使い方が厳密に定められていませんでした。例えば、当時、山(やま)という漢字が存在しましたが、当て字で、也麻や夜麻と記載された事例があります。また、当時の朝廷の視点から、地名や人名は漢字2文字が縁起が良いとされ、倭(やまと)を大和、大阪の泉を和泉、木国(きのくに)を紀伊国と漢字表記を改めた事例が存在するため、淤岐嶋が隠岐島の当て字だった可能性も十分に考えられます。
また、神話には和邇(ワニ)が登場しますが、特に山陰の出雲地方では古くからサメのことをワニと呼んできた風習があることから、山陰地方ではウサギとサメの話だと考える説が有力です。
一方で、ヤマタノオロチ(大蛇)の話も踏まえて、ウサギやサメを、単純に妖怪や動物と考えてしまうと、物語そのものの意味が分からなくなるため、当時に活躍していた部族や集団を、比喩的に表現していると考える説も存在します。例えば、神話には土蜘蛛(つちぐも)という表記が見られますが、これは当時の朝廷に従わなかった部族を表現した事例であるため、ヤマタノオロチ、ウサギ、ワニに関しても、朝廷から見た地域の部族集団と見ることができます。
実際に、5〜6世紀頃の古墳時代後期には、和邇氏と呼ばれる一族が、日本海沿岸の若狭湾周辺で活躍し、後に奈良や琵琶湖周辺にまで勢力を拡大し、朝廷をサポートしていた事実があります。また、日本書紀では王仁(わに)、古事記では和邇(わに)という名前の百済からの渡来人が、大陸から論語などの文献をもたらし、漢字の普及に貢献し、和邇氏一族の始祖であったと伝わります。
【国譲り神話】
出雲地方を治めるオオクニヌシに対して、高天原(たかまがはら)のアマテラスが国を譲るよう要請し、何度か使者を送ります。
1度目の使者は、出雲側に寝返って高天原に帰ることはありませんでした。2度目は、武力に優れたタケミカヅチが派遣され、タケミナカタを長野県の諏訪地方に追いやり、出雲地方を武力で制圧しました。
オオクニヌシは、巨大な神殿を建設することを条件にアマテラスに出雲地方を譲りました。
山陰地方の出雲に対して、高天原がどの地域を指すのか?関西、九州、関東、朝鮮半島など、現在でも様々な考古学的学説が存在していて定かではありませんが、神話の内容から、出雲のオオクニヌシが敗北して、アマテラス側の勢力に土地や権力を正式に譲ったことが分かる神話です。
千石船(せんごくぶね)と北前船(きたまえぶね)
江戸時代後期の日本を代表する船で、千石船がありました。1石(いっこく)は、1名が1年間に食べる米の量で、千石の米を運べる船という意味です。大量の物を長距離で運搬する場合、陸を進むより船を使った方が便利ですが、千石船は、幕府や大名によって運営された大型の木造の帆船(はんせん)で、風の力を利用して進みました。
一方で、北前船は千石船と同じような構造の船でしたが、民間の商人などが運営していた大型の商業船でした。大阪の堺から、瀬戸内海を経由し、山口県の下関から日本海に出て、その後、日本海沿岸各地へ寄港して北海道までを往復する商業船を北前船と呼びました。
1つの港で、その土地の物品を仕入れ、次の寄港地では販売と仕入れを行い、各地を転々としていくような、移動する船のデパートのイメージです。
北前船のような商業船を運営していた事業者を廻船問屋(かいせんどんや)と呼びますが、隠岐諸島の海士町の村上家は、生業として北前船を運営した廻船問屋で、江戸時代後期の長者番付に登場しました。
北前船は、当初は日本海の本土近海の港を転々と経由していましたが、船の大型化などにより、隠岐諸島は日本海の島々を転々と渡っていく沖乗り航路の寄港地や避難港として栄えた歴史があります。
島前カルデラの内湾は、周囲を山に囲まれた穏やかな広い海域であるため、北前船の優良な寄港地であったのと同時に、隠岐の島町の西郷港も日本海の良港と呼ばれました。
北前船によって、隠岐からは乾燥アワビや乾燥ナマコなどの海産物が全国に出荷された一方で、隠岐をはじめとした日本海沿岸地域に全国各地からの特産品が流通されていました。
【予備情報】大航海時代(ヨーロッパの世界進出)
15世紀のヨーロッパでは、香辛料への需要が高まっていました。
当時は冷蔵庫がない時代で、食肉の保存や香り付けが重要で、香辛料は高級食材で貴族にとってのステータスでもありました。
もともとヨーロッパの香辛料は、インドやアジアが原産地でしたが、ヨーロッパの東側のイスラム教国であるオスマン帝国を経由して取引を行う必要があり、イタリアのベニスの商人を仲介して取引され、価格が高騰していました。
キリスト教国であるポルトガル、スペインは、オスマン帝国を経由した貿易を避け、国王の命令によって、大型の帆船による世界航海を行い、貿易の独占とキリスト教の布教を目的とした大航海時代が訪れました。アフリカ大陸の西側沿岸を南下しインドへ向かう航路、ヨーロッパから大西洋を渡ってアメリカ大陸へ向かう航路、更には世界1周航路が次々と達成され、その後、オランダ、イギリス、フランスも世界航海へと展開します。
一方で、16世紀の日本は、各地に下剋上の大名が乱立した戦国時代でしたが、特に織田信長の活躍は、当時の幕府や朝廷を凌ぐ勢いでした。当時、ポルトガルはマカオ、スペインはフィリピンにアジア貿易の拠点
を築き、ポルトガルは日本の種子島にいち早く鉄砲を伝え、フランシスコザビエルがキリスト教(イタリア・カトリック系)の普及活動を行い、スペインも、それに続きました。
鉄砲は戦国時代の戦(いくさ)の戦術や軍事勢力に直接影響を与えました。一方で、キリスト教の布教は、朝廷や幕府には直接的には認められず、全国的に広く普及することはありませんでしたが、ポルトガル・スペイン船が寄港する九州地方の戦国大名は、南蛮貿易によって西洋の技術知識や貿易利益を手に入れ、キリスト教を容認するキリシタン大名となりました。
大航海時代に活躍したポルトガル、スペインはカトリック系キリスト教の王国でしたが、後に動き出したオランダ、イギリスはヨーロッパの宗教改革によって起こったプロテスタント系の新興のキリスト教国で、フランスはカトリック優勢の情勢でした。
オランダは世界初の株式会社である東インド会社(1602年)を設立し、出資者を募り、貿易を専門で行う株式会社を経由する形で貿易を行い、キリスト教の布教よりも貿易の利益を重視しました。
イギリスも、オランダと同様にキリスト教の布教よりも貿易を重視する方針で、イギリス東インド会社(1600年)を設立しています。また、1642年にはイギリス国内で清教徒革命と呼ばれるプロテスタント系による市民革命が起こりますが、王政側勢力が持ちこたえ、破れたプロテスタント系の勢力は、アメリカに渡り、後にアメリカはイギリスから独立(1776年)しています。
フランスは、1604年に東インド会社を設立しましたが、カトリック系の国王の国であったため、貿易だけではなくキリスト教の布教も重視しました。
日本では、江戸時代の初期(1637年)にカトリック系キリスト教信者による島原の乱が発生しています。
戦国時代の頃、ポルトガルやスペインの寄港地は、地域の戦国大名であるキリシタン大名の存在によってキリスト教が保護されていました。江戸時代になって徳川幕府が統治するようになると、キリシタン大名は反幕府勢力の立場となりました。
踏み絵や拷問、処刑など、藩によるキリスト教の弾圧が起こり、それに反発したキリスト教信者(旧キリシタン大名の勢力)が、藩に対して島原の乱を引き起こしました。
乱を治めるため、徳川幕府は約4万人の籠城に対して、約12万の兵を動員し、オランダにも協力を要請し、オランダ船による砲撃も行われ、乱を起こした約4万人のキリスト教信者は根絶されたと伝わります。
以上の事件を受けて、ポルトガルは貿易国から除外され、鎖国と呼ばれる時代が訪れました。
ただ、日本が外国との貿易を完全に断ち切ったわけではなく、キリスト教の普及よりも貿易を重視したオランダの利害関係は、江戸幕府の方針とも一致し、オランダが長崎の出島で日本との貿易を独占するようになり、日本には蘭学などの西洋の科学的学問が伝わるようになりました。
大航海時代の次に起こった世界的なできごととして、18世紀のイギリスで始まった産業革命が挙げられます。特に、石炭や石油を燃やして動力を得る蒸気機関の発明は、工場の機械化による大量生産を可能にし、鉄道や船といった交通の面での技術革新をもたらしました。
特に大航海時代から世界貿易を行ってきたイギリス、オランダ、フランスは、産業革命の流れの中で、世界中の広範囲のエリアで植民地を展開するようになり、現地人の労働によって生み出される現地の特産品を世界各地に流通させ、貿易による利益を得るようになりました。
また、これらの国々は、いち早く産業革命の波に乗る中で、軍事面の技術も進歩し、今まで見たこともない巨大な軍艦が世界に新たな脅威を与えるようになります。
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一方で、古事記が制作されたのは奈良時代ですが、当時の奈良の都があった平城京から発見された木簡(もっかん)から、隠岐からは朝廷に対して主に海産物が献上されていたことが分かっています。 また、同じく奈良時代の文献として、東大寺の近くの正倉院には隠伎国正税帳(732年)が収蔵され、当時の隠岐諸島の1年間の税(主に稲作)の様子が正確に記録されていて、その記録から、当時は隠岐でも稲作が行われていたことや、島後よりも島前の人口が多かったと推測されています。 弥生時代の終わりは定かではありませんが、大和朝廷(倭国)が全国の豪族を国造(くにのみやつこ)に任命し、全国に古墳が建設された古墳時代が存在しました。 当時の山陰地方では、出雲国造、岩見国造、意岐国造、因幡国造、伯耆国造が存在していました。隠岐にも前方後円墳などの古墳が存在しますが、古墳時代の朝廷と意岐国造の友好関係を物語る遺跡だと言えます。古墳時代以降は、全国の遺跡から青銅器が発見されなくなります。 日本が古墳時代だった頃の東アジア地域は、唐、朝鮮半島の北の高句麗(こうくり)、南西の百済、南東の新羅(しらぎ)、そして海を挟んで大和朝廷(倭国)が存在していました。 当時の倭国は、朝鮮半島の中でも百済と友好関係にあって、特に百済王は、大和朝廷に対して仏教経典を送り、それと同時に当時の大陸の技術や知識を伝え、同盟関係にあったとされています。 以上のように、日本が古墳時代だった頃は、大陸が混乱していた時代で、日本海沿岸に軍事的な緊張感が存在していたと考えられます。 また、当時は、大陸の制度や仏教を政治に取り入れようとした蘇我氏(そがし)と、それに反対する物部氏(もののべし)が朝廷内部で争い、聖徳太子の活躍によって物部氏が敗れています(587年)。 続く、飛鳥時代(592年〜)には、大陸的な政治制度(律令制度)や仏教が積極的に導入されるようになりました。当時は、奈良の都を中心に日本最古の仏教寺院が建設され、日本国内で神社と寺院が存在するきっかけの時代だったと言えます。 その一方で、大陸の朝鮮半島では、660年には朝鮮半島の百済(くだら)の滅亡が挙げられます。当時は、中国大陸は 倭国は百済に援軍を送りますが、朝鮮半島の南西海岸で争われた白村江の戦い(663年)に敗北、高句麗は唐と新羅の連合軍によって敗北(668年)、676年には新羅が唐を半島から追い出し、歴史上で初めて朝鮮半島が統一されています。 。
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